ラストサマー

 

 


あれは佳主馬が十五歳の年。
高校受験を控えた中学三年生ということで、夏とともに恒例になっている年末から年始にかけての上田滞在ができないと万理子に報告していた食事の席でのこと。
中学生になっても伸び悩んで小さかった佳主馬も怒涛の成長期を迎え、態度だけでなく体格も偉そう、もとい立派に成長していたのだが、たまにしか会わない親族たちからはまだまだ「小さな佳主馬くん」のイメージが抜けないらしい。
陣内家きっての体育会系である祖父の万助は佳主馬の成績を知っているので「今から机に齧りついてどうする!」などと赤ら顔で呑気な文句をつけてきたが、単純に従弟にかまいたいだけの翔太が「なんだ佳主馬、受験ヤバいのかあ?」なんてからかい出すと、佳主馬は白けた一瞥を従兄に向けた。
「そんなわけないでしょ」
「うわっ、さすが佳主馬!」
「ま、あんたのことだからランクを上げたとかそんなとこでしょ」
叔母の直美はさすがに甥の性格を見抜いている。二歳になったばかりの娘の世話をしていた母親の聖美はそうなのよと朗らかに笑った。
「自転車で通える近いところがいいって言ってたのに、突然ランク上げちゃって。担任の先生は泣いて喜んでたけどね」
あーなんか目に見えるようだと、その場にいた親戚一同は思った。
きっと佳主馬の成績なら余裕の進学校も、近所じゃないからという理由で本人の希望から外されていたのだろう。周囲の大人の思惑とか希望なんかまったく頓着せずに。
とはいえ本人にも理由はあるのだ。
妹がまだ小さいとか、ベテラン介護スタッフである母親に休職中の職場から悲鳴のような復帰コールがきてるとか、家族としてはなかなか切実な理由が。
昼間は託児所に預けるにしてもできることなら早めに迎えに行ってやりたい。希望していた高校なら帰り道に託児所があるから時間のロスもない。そういった理由から近所の高校を選んでいたはずなのにと、聖美は首を傾げた。
「ちょうど施設に託児所ができたからそちらに預けることにしたの。復帰したばかりでフルに働くのもちょっと難しいし。だから佳主馬に迎えに行ってもらうことはないんだけど、今希望してるところはちょっと交通の便が悪いのよね」
「自転車で一時間で行けるよ。交通事情のよくない生徒は申請すればバイク通学も許されるから、誕生日来たらすぐに免許取る」
愛知でも指折りの進学校らしく、成績さえよければ大抵のことは許されると馬刺しをパクつきながら佳主馬は言った。進学校にしては自由な校風だがそれに甘えているとあっという間に成績が落ちて学校に居づらくなると聞いて、そこが気に入ったとも。
ふと箸を止めて、それにと呟く。
「今から頑張らないと、追いつけないし」
「追いつくって、誰に?」
「健二さん」
佳主馬の口から出てきた名前に、皆はああと納得した。
二年前の夏にこの家に訪れた夏希の後輩だった少年は、本人の意思はまるっと無視してとんでもない嘘の経歴を作り上げられていた。曰く、東大在学中で留学経験ありで旧家の出身。
まるっきり夏希の大叔父と同じ経歴を設定させられた彼は、だが、今年の春にそのうちのひとつを現実のものにした。理数系以外はさっぱりだと自分で言いきっていた成績があの夏以降なにか吹っ切れたように上昇してくれたと、ほわほわ笑って簡単に報告する彼にやっぱり大物だと苦笑したものだ。
もともと集中力は凄まじいものがあったのだ。数学だけに向けられていたそれが他の教科にも多少なり生かされた結果らしい。英語だけはどうにもならなかったらしいが、ともかくこの春には見事かの有名な赤門をくぐることとなったのである。
二年前の夏、墜落してくる小惑星探査機から陣内家を守り、家の中心だった栄が亡くなってバラバラになっていた家族をもう一度繋ぎとめた恩人である小磯健二という少年は、結局夏希とは進展することなくいい友人関係に落ち着いたのだという。だからといって疎遠になることは陣内家全員が許さなかった。いつも穏やかに笑っている、寂しいことをそうと感じることも忘れてしまった一人ぽっちの少年を誰もが放っておけなかったのだ。
去年の夏は宥めて脅して怒って、最後には当時一族で一番小さかった加奈に泣き落としさせてまでして上田まで来させた。そこまでしてもどこか遠慮がちで申し訳そうにしている健二に、子供たちを含めた一族全員どうしてくれようと思ったものだ。生命力溢れる陣内の人々は庇護欲も半端なかったらしい。
そんな風に陣内家全員に愛されている健二に一番懐いていたのが佳主馬だった。
母親のお腹の中に忘れてきたんじゃないかというくらい愛想というものが欠けている佳主馬は、身内ならまだしも他人に対しては徹底して無関心だ。その佳主馬が自分のパソコンに触らせるほど健二に懐いたのは意外だった。それだけでなくあの夏以降は頻繁にメールをやり取りしたりチャットで話したり、さらに仕事で上京する時には直接会いにも行っていたらしい。
いい傾向だと両親は安心していたようだが、ただ、ほんの少し、懐き方が度を超えているような、というかけっこう危険な方向に向かっているような気がしたのもまた事実で。
だから。
「健二さんと付き合うことになったから、負けてらんない」
佳主馬が何気なく口にした台詞に誰も麦茶やビールを噴くことなく、冷静にコップをテーブルに置くことができた。
「へえ。どこに?」
一人だけそんなぼけた反応を返したのはやはりというか恋愛音痴の夏希だ。他の面々は何とも微妙というか、ああやっぱりと言いたげな顔をしている。それほどこれまでの佳主馬の健二に対する態度はあからさまだった。
「僕と、健二さんが、恋人としてお付き合いすることになったといえば夏希姉にもわかる?」
懇切丁寧な台詞と白々とした視線を向けられて、夏希はようやく事態を飲み込んだらしい。恋愛音痴というか、恋愛に対する感覚自体が古風な彼女はそれでもしばらく「え? え?」と混乱していたようだが、どうにか落ち着きを取り戻すと盛大に顔を顰めてみせた。
「なに?」
「それ、健二くんはちゃんと納得済み?」
夏希にとって重要なのはそこだった。互いに恋愛感情までは至らなかったが、ただの友達以上の思いは持っている。佐久間のような親友というポジションではないけれど、離れて暮らす姉と弟のようなものだと思っている。
だから、佳主馬のこの宣言が健二にとって本意ではないのなら全力で阻止するつもりだ。優しくて優しくて、寂しいあのやせっぽちの男の子には悲しい思いも辛い思いも何ひとつさせたくないから。
「どうなの、佳主馬」
今は亡き陣内栄によく似た、薙刀の一閃のように鋭い視線にさらされて、佳主馬はすうっと目を細めた。
中学入りたての頃は小さくて細くて、正しい年齢どころか女の子とまで間違われていた佳主馬だったが、あの夏を過ぎたあたりから急速に成長していた。成長期真っ只中だったせいもあるだろうが、執念のようなものさえ感じさせる成長っぷりだった。
思えば、あの頃にはもう佳主馬は恋をしていたのだろう。自分より年上で、やせっぽちだけれど自分よりも頭ひとつ分背の高い、又従姉の連れてきた高校生の少年に。
よく焼けた肌と漆黒の髪、対をなすように黒々とした切れ長の目は整った容貌と相俟って中学生らしからぬ迫力を孕んでいる。体格もすでに夏希を軽く超えていてその威圧感は半端ではないのに、夏希は全く動じず佳主馬を鋭く睨みあげて。
「健二さんが拒否してたら、俺は今ここにいないよ」
諦めるつもりも逃がすつもりもないから東京で口説きにかかってる。
真顔でそう言い切った中学三年生に、陣内家の男衆は軽く引いた。負け戦でもあきらめないのが陣内の家訓だが、なんというかこう、本能でストーカーめいたものを感じてしまったようだ。
「本当に?」
「嘘ついてどうするの。なんなら健二さんに直接聞いてみれば?」
その健二はといえば教授の手伝いとやらで上田入りが遅れている。数学オリンピックメダリストの肩書きから理数系の教授連から目をかけられているらしい。
佳主馬と夏希の睨み合いはしばらく続き、やがて、夏希は小さく息を吐いて、いいわと呟いた。
「あんたがそこまで本気で、健二くんが嫌がってないなら、いいわ。許してあげる。でも覚えておきなさい。健二くんをほんの少しでも傷つけるようなことがあれば、奥の間の奴で叩っ切るから」
「夏希あれ家宝だから! 御先祖が武田の殿様から頂いたものだから!」
「なんで夏希姉に許されなきゃいけないのさ」
「なんで、ですって?」
胡乱げな佳主馬に、夏希ははっと鼻でせせら笑った。
「そんなの保護者の権利に決まってるじゃない。私の目が黒いうちは健二くんの指を舐めても駄目よ」
佳主馬は黙った。とても珍しいことに。
夏希のわけのわからない迫力についに押されたらしいと判断した男衆は、わらわらと佳主馬の周りを囲んで肩を叩く。よくやった、おまえは男だよとよくわからない激励とともにいつの間にか酒盛りが始まり、そしていつの間にか佳主馬の手にもグラスが握られていた。手慣れた手つきで煽る息子の姿に母親はため息しかつけなかった。
毎度のことながら陣内の男たちの妙な団結力に呆れかえっていた女性陣は、ふとほんの少し、妙な引っかかりを感じたのだが、子供たちのお腹すいた―という訴えに気を取られているうちにすっかりそのことを忘れてしまったのだった。

 

 

翌日の朝。
朝一の新幹線に飛び乗ってきた健二が玄関に入るなり盛大に冷やかされ、真赤になった後は真っ青になり、半泣きで聖美に土下座して謝罪するというハプニングはあったが陣内家は今年の夏も平和だった。
ちなみに佳主馬は滞在中健二に口を利いてもらえなかったがそれは些細なこと。


 

 

 

 

 

成長した佳主馬の口調に頭を抱えている今日この頃(涙)