初めてのxxx
「しまった‥‥‥」
荷物を詰めてきた鞄を前に、健二は途方に暮れていた。
「着るもの、ない」
まずいかもとは思ってはいた。が、あらわし落下の衝撃で半壊した家の後片付けやら葬式の手伝いやらで文字どおり目も回るような忙しさですっかり忘れてしまっていた。
使用済み洗濯待ちの下着を指でつまみ、はあっと大きく息をつく。
夏希に頼まれたバイトの日程は四泊五日。今は亡き栄の誕生日を祝った翌日には陣内家を去る予定だったから、着替えもその分しか持ってきていない。それがどういう巡りあわせなのか、世界を巻き込んだスケールの大きすぎる家族喧嘩のど真ん中に叩きこまれた揚句に(要約するとそういうことだと気付いた)すっかり身内待遇で、現在進行形でずるずると滞在が伸びてしまって。
結果、ついに着替えが底をついた。
草食系だなんだといわれようと、夏の盛りでは健二だって汗をかく。後片付けや何やらで普段はしない力仕事を非力ながらに手伝いもしたし、この下着をもう一度履くのは全力で御免被りたいところだ。
「洗濯機、借りられるかな」
時計を見ればまだ朝の七時前だ。台所では新当主の万理子を陣頭に女の人たちが朝食の支度をしている気配がする。お願いして洗濯機を貸してもらって、今から干せばお昼頃には乾くだろう。今日もいい天気になりそうだし。
よその家で洗濯機を貸してもらうなんてと思わないでもないが、いくら遠慮がちな健二でも背に腹は代えられないことがある。今がそれだ。ほんのり淡い想いを抱いている憧れの先輩の前に、ていうか女の人たちの前に、二日物の下着を着けて過ごすなんてとんでもありません。
余談だが、体育系の面々の中には一週間物でもまったく気にしない連中がいることを、そして陣内家の女衆はそんな連中に慣れっこであることを彼は知らない。
ぽてぽてと台所に向かって長い縁側を歩いている途中で、ちょうど聖美に出くわした。
大きなお腹をものともせず、大量の洗濯物を入れた籠を持っている彼女からあわてて籠を奪い取ると、「後で洗濯機借りていいですか?」とお願いしてみた。すると、即座に事態を理解した聖美に洗濯物持ってきなさいと笑顔で命令されてしまった。その笑顔に、「いえ後で」とか「下着は自分で」とは言えなかった。笑ってるのにすごくこわかった‥‥‥
ついでに着ているパジャマも剥ぎ取られてしまい(下着は予備で持ってきてたのでセーフだった)、パンツ一枚にされた健二は呆然と洗濯機の前で立ち尽くすしかなかった。大容量の洗濯機は健二の服を全部飲みこんでごうんごうんと豪快に回っている。
「えー‥‥‥?」
空は抜けるような青空。庭から覗き込んでくる「何してるのー?」と言わんばかりのハヤテ。それなのに僕はパンツ一丁。なにこの罰ゲーム。
呆然と固まっていると、その様子がおかしかったのか聖美はころころと笑いながらはいと代わりの服を差し出した。
「とりあえず乾くまでこれ着ててくれる? 健二くん痩せてるから大丈夫だと思うわ」
「あ、ありがとうございます」
ほっとしながら渡された服を見て、健二はびしりと固まった。何やら見たことのあるこのデザインは―――。
冷たい汗が背中を伝ったのは、果たして気のせいか。
「あ、あの、これはどなた様ので」
すでに聖美はいなかった。朝の主婦は忙しいのだと言わんばかりに健二を置き去りにしてくれた彼女の背中はすでに廊下の角を曲がっている。
聖美に突っ込みたいことは山ほどある。これが、これを僕が着れると思っているんですか聖美さんああ着れると思ってるんですね貴方の中で僕はどんだけなんですか?!
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ええいっ!」
僕ならやれますよね栄おばあさんっ!
尊敬する老女はあたしゃ知らないよと笑いを噛み殺しながら素知らぬ顔をするか、はたまた指さして大笑いしてくれるか。きっと後者だろうなと健二は思った。
「ねえ、健二さん知らない?」
佳主馬が台所を覗くと、そこは戦場だった。
大小合わせて二十人分の朝食である。葬式が終わってもまだまだ来客があることからもてなしの準備も並行しているため、使い物にならない女手をのぞいた女衆が忙しそうにしていた。
これはダメだと判断した佳主馬は回れ右をして縁側の方へ向かう。すると、ちょうど母親が大量の洗濯物をせっせと干している最中だった。小さいのから大きいのまで、家族の服が夏の空の下で気持ちよさそうに風に吹かれている。
ぼんやりとそれを眺めていた佳主馬は、その中に見覚えのある服が混じっているのにふと気付いて目的を思い出した。
踏み石に並んでいるサンダルを引っ掛けて庭に下り、母親の手から洗濯物を奪う。
「あら、ありがとう」
「そろそろなんだから大人しくしててよ」
「大丈夫よお。ちょっとは運動した方がいいんだから」
そう言って笑う母親に大きく息をついた佳主馬は、慣れない手つきで洗濯物を干しながら、
「健二さん見なかった?」
客間にいなかったんだ。
あらわし落下直後は無事な部屋の方が少なかったから男たちは適当に雑魚寝をしたが、弔問客まで巻き込んだ後片付けでどうにか客間の体裁は整えられ、健二はそこに戻っていた。佳主馬は家族といっしょである。避難場所である納戸がまだ片付いていないので仕方がない。
その客間に行って見れば、まだ七時を過ぎたばかりなのにすでに布団も蚊帳も部屋の隅できちんと畳まれていて、本人はどこにもいなかった。布団の陰にかくれた鞄が中が丸見えになっているのが几帳面な健二らしくなくて気になった。
特別用事があるわけではなかったが、OZ騒動が勃発してからずっといっしょにいたので姿が見えないとなんだか落ち着かない。我ながら何なんだと思いながらも、あのひょろりとした姿を探している最中だったわけだ。
「ああ、健二君なら朝顔に水をあげているわよ」
「‥‥‥そうなの?」
「佳主馬も手伝ってきてくれない? おばあちゃんの朝顔が無事だったのはうれしいけど、ちょっと鉢が多いしね」
「わかった」
居場所が分かった途端そわそわし始めた息子の手から洗濯物をやんわりと取り上げると、聖美はにっこり笑って健二がいる裏庭の方を指差した。素直でない息子は弾けるようにまではいかなくても、堪えられないように速足でそちらに向かっていった。
「あらあら」
聖美はころころと笑いながら、息子が干したぐちゃぐちゃの洗濯物の皺を丁寧に伸ばす。ま、気持ちは嬉しかったぞ息子よ。
一方母親に駄目だしされた揚句に体よく追い払われた息子は、朝顔の鉢が置かれている裏庭につくときょろりと健二の姿を探した。
壊れたものの使えそうな資材が所狭しと並んでいる一角に曾祖母の大切にしていた朝顔の鉢は置かれている。あの衝撃波の中、奇跡的に無事だった朝顔の鉢は今も玄関や縁側を彩っているが、ほとんどの鉢が欠けたり土がこぼれたりで傷んでしまっているため、裏庭で植え替えを待っているのである。が、花は変わらず元気に咲いている。さすがばあちゃんの朝顔だと誰かが言っていた。
きょろきょろと見回すと、白い人影が材木の陰から見えた。佳主馬は思わず足を速めてそちらに向かい、そして。
立ち止まって、あんぐりと口を開けた。
「あれ、佳主馬くん?」
おはよう。今日も早いんだね。これから朝稽古?
ふわふわとした笑顔での挨拶も、その後の問いかけも全部耳をすり抜ける。あれー? 佳主馬くん? なんて細い首を傾げられても、佳主馬の目は一点に釘づけだった。
その視線の向かう先に気づいた健二は、ああこれ、と眉を下げた。
「ごめんねえ。着替えが全くなくなっちゃって洗濯してもらったんだけど、これ、佳主馬くんのだよね。勝手に借りちゃって」
「‥‥‥それは、いい」
着替えも何もなくなってしまった健二に聖美が差し出したのは、佳主馬のハーフパンツだった。確かにフリーサイズのハーフパンツならウエスト部分は紐で調整できる。履けさえすれば。佳主馬は中学一年生だが小柄で、制服はともかく普段着はかなり小さい。山よりも高いと自覚しているプライドにやすりをかけた上に塩を塗りこむようだが、はっきり言おう。小学生サイズだ。なのに、その佳主馬のハーフパンツを健二は苦しげもなく履いてしまっている。
「健二さん、ウエストきつくないの?」
「聞かないでほしかったなあ‥‥‥」
健二は遠い目をしていまだに噴出している温泉を見やった。
「自分が薄いのはわかってたけど、さすがに中学生の服が着れるほどとは知りたくなったよあははは‥‥‥」
どうやら、佳主馬のハーフパンツを履けてしまった現実は佳主馬だけでなく健二にもダメージを与えてしまったらしい。
「でも、さすがにタンクトップは勘弁してもらって理一さんのTシャツを貸してもらいました。そしたら今度は大きすぎてねえ。なんかもーいろいろ泣くに泣けません」
陣内の男はさすが武士の家筋というか、総じて体格がいい。男ざかりの理一はその筆頭で、彼のTシャツを着た健二の薄くて細い体は布の中で泳ぎまくっている。なんというかこう、イメージするところはお泊りして彼氏のTシャツ借りちゃったあれというかこれというか。
いやそんなことよりも。いやそれも大事だけどでも!
「健二さん、足真っ白」
棒読みだった。全く抑揚のない見事な棒読みだった。しかし夏希とともに巨大鈍チンの双璧とされている健二はそれに気づかず、のほほんと日焼けしないからねえなんて笑っている。
ウエストは収まったもののさすがに丈が足らなかったらしく、佳主馬が履けば膝が隠れるハーフパンツも健二だと膝上が出てしまって女の子のレギンスのようだ。そこから伸びる日差しにさらされない足は白く、とにかく白く、細く。くっきりと浮き出た踝の骨がなんだかとても―――
「佳主馬くん?」
佳主馬は健二に背中を向けて、ふらりと歩き出した。なんだか珍しくふらふらと危なっかしい様子で、追いかけるべきかどうかしばらく悩んでいた健二だが。
家の陰で曲がったあたりで聖美の、
「きゃーっ! 佳主馬! あんた鼻血! どうしたの?!」
という悲鳴に持っていた如雨露を投げ出して走り出したのだった。
佳主馬くんどうしたの?!
あー健二くん、台所でタオルを冷やしてきてくれるかな。
は、はいっ!
佳主馬。
‥‥‥‥‥‥
足首フェチとはマニアだな。
人の心読むのやめてくれる?!
ちなみにおじさんは自分のTシャツ着てる彼女に萌える方でね。
健二さん逃げて超逃げてええええっ!