世界は広いな。
それに、自分が思っていたよりずっと優しかった。
魔王はそう笑った。
人よりも数段優れた頭脳と視野を持っている魔王は、魔王だった少年は、しかし、全ての世界を知っているわけではなかった。頭では理解していても、事実として認識していなかったのかもしれない。
世界は広かった。
そして優しかった。
優しい世界、なんて、わざわざ望まなくても、世界は充分、とても。
「あそこが特殊なのだと覚えておけよ」
魔女が水を挿す。
「おまえが粛清の対象とした地域では、おまえは依然悪逆皇帝、世紀の魔王のままだ。処刑した貴族の首を並べて笑っていたなんて記事まで載っているぞ」
「ほう?」
面白そうにゴシップ雑誌を見せる魔女に、魔王だった少年は馬車の手綱を慎重に操作しながら、その雑誌を受け取った。開かれてたまま寄越された雑誌のページにしんなりと眉を顰め、
「なあ、こういう記事は普通一番悪人面に見える写真を使うものじゃないか?」
やけに映りのいい悪逆皇帝のスナップに呆れてしまうのも無理はない。
どれほど唾を吐こうとも、罵ろうとも、悪逆皇帝の美貌だけは誰も否定できないのだとは、さすがの魔女も口にしなかった。親切に教えたところで、自分の容姿にまったく興味のない魔王には理解できないのだから。
悪魔めいた美貌とその頭脳、そしてあまりにも血を求めたその所業に、彼は本当に悪魔だったのではないのかと囁く輩もいるほどだ。

 

ゴトゴトゴト。
車輪が回る。
荷馬車は進む。

 

実際は、犠牲は最少だったと知っているのは、各国の要人だけだ。
悪逆皇帝が処刑したのは、各エリアから吸い上げる富に未練を残し、庶民に混じることをよしとしなかった多くの貴族。解体された財閥の関係者もその中に混じっていたが、大人しく財産を差し出した連中は生かされた。それでも全ての財産を取り上げられたわけではなく、家族が一生働かないで食べていけるギリギリの財は残された。彼らが庶民と一緒に働いていけない可能性を考慮していたとわかる、その処遇。
今まで税金と無縁だった貴族に高い税率を突きつけ、反発を促し、叩き潰してその首を切る。
ブリタニアが積み重ねてきた負の部分を容赦なく刈り取る姿は、一方の面から見れば確かに悪魔だ。だが、大多数の民衆には悪逆皇帝の非道は自分たちにはまったく関係のない、他所の世界の話だった。
悪魔みたいな皇帝が貴族を沢山殺したってさ。
へえ? そうなんだ。
でも俺達の生活は変わらないしな。
なあ。あ、明日あたり雨が降るみたいだぞ。
そろそろひと湿りほしかったからちょうどよかったな。
そういえばジョシュアのところに隣町から嫁が来るんだってよ。
あいつもいい年だからな。俺のところの息子もそろそろなあ。

 

ゴトゴトゴト。
車輪が回る。
荷馬車は進む。

 

村の外れに、ペンドラゴンで騎士として仕えていた若い領主の館がある。
本宅はペンドラゴンに移されていたのだが、首都壊滅の際に館は失われてしまっている。悪逆皇帝に最後まで仕えていた領主は、しかしひどい咎めもなく解放され、首都から遠く離れた故郷であり領地である田舎に戻ってきた。
桃色の髪の小さな少女を伴って。
貴族制度の廃止により、もう領主ではなかったが、長年領地を治めてきた青年の父母やその祖父母に対する敬愛を忘れていなかった農民達は、温かく彼を迎えた。悪逆皇帝が何をしたかなんて知らない。彼の元で青年が何をしたのかなんて知らない。ただ、ようやく重い何かから解放されたように晴れ晴れと笑う青年の姿に、ただお疲れ様でしたと告げた。

 

ゴトゴトゴト。
車輪が回る。
荷馬車は進む。

 

戻ってきた一月後、青年はどこからか病人を一人つれてきた。
ひどく弱った、いっそ痩せすぎの少年は歩くことも出来ないらしい。青年は宝物のように少年を横抱きにし、常は人形のように茫洋としている桃色の髪の少女は、鷹のように目を鋭くさせて周囲を警戒した。彼らの大切な人なのだと、農民達にもわかった。
艶やかな黒髪の、宝石のような紫の瞳の、マリア様のように綺麗な、痩せた少年。
新聞で見たことのあるその顔。
けれど、誰も何も口にしなかった。
少年はとても痩せていた。少年はとても疲れているようだった。
そんな少年を、青年と少女はとても大切にしていた。
それでよかった。
それだけで。

 

ゴトゴトゴト。
車輪が回る。
荷馬車は進む。

 

「なあ、私の魔王」
「なんだ、魔女」
「世界は優しいな」
「そうだな」
「でも、そうでない場所もあるな」
「そこは課題だ」
「宿題の間違いだろう。あの小僧、肝心なところで噛むか普通」
「‥‥‥やればできる奴なんだ」
「おまえのその母性には感心するよ」
「何が母性だ。俺は男だ。父性の間違いだろう」
「ああ、いい天気だな」
「聞けよ」
「いい天気だ」
「‥‥‥そうだな」
「オレンジピザが食べたい」
「そういうゲテモノは認めない」
「おまえの作ったマーマレード、人気商品になってるらしいな」
「ああ。傷になったオレンジはどうしても値が下がるからな。それならこちらで何かに加工して商品にした方が価値が出る。それで利益を上げれば村の外れの石畳を直せるぞ。そうだ、いっそ村の女の人たちにも声をかけて」
「ワーカーホリックめ」
「何か言ったか?」
「なんでもない」

 

ゴトゴトゴト。
車輪が回る。
荷馬車は進む。

 

魔女は荷馬車の上、雲がのんびり浮かぶ空を見上げた。
――――ああ、なんて。
「いい明日だ」

 

 

 

 

マーマレードは咲世子さんと二人で作っています。
時々ゼロにお裾分け。