それは初めて見るものばかりだった。
庶民の街。庶民の乗り物。庶民の生活。行きかう人々も庶民、庶民、庶民。
「すごいなあ」
ジノはアクアマリンの瞳を子供のように煌かせた。
こういった街並みはブリタニアでも見かけるが、本国においてのジノは自分の足で歩く場所は限られている。移動はラウンズ専用の車。もしくは飛行艇だ。電車を見ることはあるが遠目からで、こんなに間近から見ることなどない。
図体のでかい、見目のよろしい若者が無邪気にはしゃいでいれば、それはそれは人の目を引くのだけれど、常に他人からの視線に晒されているジノが気付くことはない。それは隣の同僚も同じだ。
薄桃色の髪の少女は無表情に、けれど間違いなく楽しそうに、夢中で周囲の景色を携帯に収めている。いつもより動きの早い指先がそれを物語っていた。
「アーニャ、あっちも!」
「記録」
ぴろーんと可愛らしく携帯が保存完了を知らせる。
あっちも、こっちもと身振り手振りで指を向けるジノは本当に楽しそうだ。一度は破壊の限りを尽くされた租界は、この一年の間に速やかに復興された。ナンバーズの反乱などなかったのだと公の記録にしてしまいたい本国の思惑はどうあれ、真新しい街並みは施設もすべて新しく、薄っぺらくもピカピカしているように見えた。
まるでおもちゃの街並みだと、昔からこの周辺にいる者ならば思っただろう。だが、通りすがりでしかないジノの目にはとても刺激的に映った。
「あーそれから」
ふと、ジノの動きが止まった。
大量の画像を撮ったはいいものの、一度に詰め込んだせいでメモリが怪しくなってきていた携帯の操作に夢中になっていたアーニャは、突然静かになった同僚に気づかない。というか、気にもしない。せっせと手を動かして、画像をブログに投稿して容量を減らしていく。
「ごめん、アーニャ。一人で帰れるよな」
「‥‥‥なに?」
戦闘時ならばともかく、普段のアーニャの反応は早くはない。一拍おいて顔を上げれば、そこにジノの姿はすでになかった。
置いていかれたのだ。
ざわざわと、行きかう人々の喧騒が押し寄せてくる。そんなものに怯えるような根性はしていないが、気ままに姿を消した同僚には思うところはある。
アーニャは、変わらず無表情のまま、呟いた。
「後で締める」
目の前で、黒髪が揺れる。
艶やかで真っ直ぐな、漆黒の滝のように流れる長い髪。
身長はあるが、華奢でありながらも緩やかな弧を描く肢体は紛れもなく女性のもの。それも極上の。
すれ違った瞬間、視界を掠めた肌は抜けるように白く、触れてみたいという欲求に駆られた。そして、何よりも。
稲妻のように閃いた、紫水晶が。
優雅に、そして優美に歩む女性の後姿をしばらく堪能したジノは、迷うことなくその手を取った。ほっそりとした、柔らかい手だった。
顔は見ていない。だが、後姿と姿勢は女性の真価であるとジノは思っている。そして、この女性の後姿も、姿勢も、凛として美しかった。
――――暗くすれば顔なんか関係ないし。
そんな失礼なことを考えなかったわけではない。たとえ期待はずれでも、これほど美しい背中ならば充分だ。
ジノはゆっくりと腕を引き、その女性を真正面から見詰める。
そして。
息を、飲んだ。
‥‥‥これは、人だろうか?
ここは庶民の街のはずだ。行きかうのも庶民、ごくありふれた市井の人々。そんなところで、こんな存在が。
夜を孕んだ射干玉の黒髪。
ブリタニアだけでなく、古い歴史を誇る国であるならば貴色とされる鮮やかに濃い紫水晶の瞳。
白い肌。優美でしなやかな肢体。
そして、美しい女など見慣れているはずのジノが息を飲む、その人にあらざる美貌。
美しい。そんな簡単な言葉すら色褪せる美少女は、しかし、確かに血の通う人間らしく、微笑を浮かべた。
嘲りの色濃い、妖艶な微笑を。
「‥‥‥スマートではないな」
ああ。声すら美しい。