皇宮の闇は深い。
父親に連れられて初めて訪れた華麗な宮殿を目にして、まず感じたのは恐怖であったことをジノは覚えている。
あれは初夏の頃、陽気で汗ばむほどだったと思う。太陽は眩しく、周囲は明るく、絶対的に頼りにしているとは言いがたいけれど、庇護者である父親が隣にいる。
それなのに。
華麗なほどに美しく、埃ひとつ落ちていない清潔な宮殿と庭園を前にして、何故こうも冷たい汗が背中を伝うのか。
見上げれば、父親は何も感じていないらしく、慣れた様子で宮殿に足を進めていく。初めて公の場に連れてきた末息子を気にしてか時折振り返るが、それが自分を心配してのことではないと幼いジノはもう知っていた。小さな子供が粗相をしないか、心配しているのはそれだけだ。
そもそも父親とこうして顔を合わせるのは二ヶ月ぶりなのだ。親に対する思慕などとうになく、自分に対する情も期待していない。ジノが特別不幸な子供ではなく、ある程度の地位の貴族の子供など大抵はこんなものだ。跡継ぎである長男であればともかく、分家して爵位を貰うしかない末息子などいてもいなくても同じこと。
半年振りにペンドラゴンの邸宅に呼び出されたかと思えば、母親や兄たちと話す間も与えられず連れてこられたのは皇帝と皇族方が住まう皇宮。誰の前に突き出されるのかは知らないが、大人しくして話をあわせておけばいいのだろう。豪奢な車に乗せられた時のジノはそう思っていた。
だが。
なんだ。これは。
華麗な宮殿。美しい庭。どこもかしこも明るく、白く、華やかで。敬礼をする衛兵もすれ違う貴族も清潔で美しく装っているのに、それなのに。
なんだ。この淀んだ気配は。
別宅に追いやられていた大貴族の末息子らしく達観しているように見せかけて、実際は斜に構えたつもりで拗ねているだけのジノはこの時まだ六歳だった。父親の立場や周囲の思惑などにある程度は頭が回るように教育はされているが、それでもまだ子供でしかなかったのだ。
足元に絡みつくような冷たい恐怖にパニックになり、この時、誰に会ってどんな対応をしたのかまったく覚えていない。館に戻って落ち着きを取り戻し、恐る恐る父親を伺えばどことなく機嫌がよさそうなことから失敗はしていないらしいとだけ悟る。
ジノは、ようやく大きく息をついた。
後日、隠居してペンドラゴンを離れ、郊外に館を構える祖父を訪ねて、あの時に感じたものを必死で訴えた。
祖父はこの神聖ブリタニア帝国が周囲に脅かされる小国だった時代から、皇帝を支え、国を支えてきた純血の貴族だ。戦場や政治手腕で手柄を立てて爵位を上げた新興の貴族などとはわけが違う。そのくせ、この激動の数十年を経験しているからか祖父の視点は柔軟で貴族的なものに収まらない。ジノにとって父親よりも信頼している人だった。
その祖父は、ジノの話を聞き終えると、ほろ苦く笑いながらジノの頭を撫でた。
若かりし頃の祖父によく似た、白金の小さな頭。
孫の透明なアクアマリンの瞳を覗きこみ、祖父はゆっくりと口を開いた。
――――皇宮には、魔女の呪いがかかっているからな。
魔女。
真剣な話を御伽噺で返されて、ジノは行儀悪く唇を尖らせた。
そんな孫を宥めるように幾度か頭を撫でて、祖父はいずれわかるとだけ口にした。誤魔化されたと思ったジノはますます拗ねたが、あの気配がわかるのなら、おまえはいずれ帝国最強の騎士に名を連ねるであろうなと言われてしまえば、たちまち機嫌を直して笑顔になった。祖父は誉め言葉を惜しむ人ではなかったが、やはり滅多にないことではあったので。
ジノは機嫌よく目を細めて、祖父の皺だらけの手を大人しく受け止める。
そんな孫に、祖父は繰り返し繰り返し、囁いた。
――――皇宮には魔女が棲んでいる。覚えておくのだよ、ジノ。
「なんてこともあったなあ」
幼い頃の記憶をふと思い出し、ジノはのんびりと呟いた。
かつて説明のしようのない恐怖を抱いた皇宮の中を毅然と顔を上げて歩く。
ほんの一ヶ月前まで、案内されずともジノが許されるかぎり好きな場所へ行けた宮殿は、今は誰かに見つかれば即座に衛兵が駆けつけてくる場所に成り下がっている。ヴァインベルグの館よりも馴染んだ宮殿の変わりように苦く笑いながら、ジノはひっそりと静まり返った回廊を進んだ。
皇帝の騎士、ナイトオブラウンズ。
そのナンバースリーの席を賜ってくださった皇帝は、もういない。
現皇帝に弑逆されたのだ。
神聖ブリタニア帝国第98代皇帝シャルル・ジ・ブリタニアは、その息子、死んだと思われていた第11皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの手によって殺された。そして現在、第99代皇帝を名乗っているのだ。
思わず、ため息が漏れた。
ジノはシャルル前皇帝のラウンズだ。弑逆はもちろん簒奪など認められない。だからこそ、ペンドラゴンに住まう皇族や貴族たちが揃ってルルーシュ皇帝に頭を垂れても、ジノは現皇帝の元に馳せ参じることはできなかった。
かといって、解放された旧エリアに取り残された財閥関係者や貴族たちのように、簒奪者めと唾を飛ばして罵ることもできない。
ジノにとってルルーシュは、初めて通う庶民の学校での慕わしい上級生だったから。
初めて会った時から不思議な人だなとは思っていた。
艶やかな黒絹の髪。皇族特有の、皇帝に近しい煌く紫水晶の瞳。
どれほど熟練した技を持つ人形師にも再現することなど不可能だろう、滑らかな処女雪の肌。
その造作を讃える言葉はいくらでも湧いて出る。美しい男性など皇宮内には掃いて捨てるほどいるのに、ルルーシュは別格どころか彼らと同じ舞台に立たせることすら失礼だと、そんな馬鹿なことさえ考えてしまうほどの美貌の持ち主だった。
優雅な物腰と雰囲気はとても庶民とは思えなくて、次にペンドラゴンに帰った時にでも調査してみようかとまで考えた。もしかすると本人が知らないだけで皇族のどなたかの落し胤かもしれない。そう思ったからだ。
それならばアッシュフォード学園を去っても何かしらの関係を持続する事ができるなんて考えていた当時の自分に、ジノは思わず笑ってしまった。どれほどジノと呼べと、普通の後輩として扱ってくれと訴えても、ルルーシュは優雅に微笑んでヴァインベルグ卿と呼ぶ。その程度の関係しか築けなかったのに。
シャルル皇帝が行方不明になり、シュナイゼル第二皇子が皇帝弑逆を示唆し、ナイトオブセブンであるスザクが皇帝暗殺に飛び出して行ってそのまま行方知れずになってから一ヶ月、ジノはシュナイゼルの元で情報を整理した。
ルルーシュ・ランペルージは死んだと思われていたルルーシュ・ヴィ・ブリタニア第11皇子で、ゼロ。
ユーフェミア殿下を操り特区に集まった日本人を虐殺させてブラックリベリオンを引き起こし、そのまま逃亡した唾棄すべき反逆者。
彼は、ギアスという人の意思を捻じ曲げる異能の力を持ち、その力でユーフェミアに汚名を着せて、黒の騎士団を操り、この世界に混乱を引き起こしたのだ。
コーネリア皇女殿下、いや、元皇女(皇位返上と引き換えにブリタニアを飛び出したのだからジノにとって敬うべき相手ではない。そもそも軍人として他国の軍人や一般市民を虐殺してきておきながら家族への情で軍務を放棄した彼女は軽蔑の対象でしかない)は、美しい顔を醜く歪めてそう罵った。仮にも弟だろうにと、ジノは冷めた思いでそんな彼女を見ていた。
コーネリアの証言は事実だろう。彼女の立場からだけ見た、一方的な事実。
だが、ルルーシュ側から、スザク側から見た事実はどうだ。黒の騎士団はシュナイゼルの編集した証拠とコーネリアと純潔派の女軍人の証言を完全に鵜呑みにしているから、彼らから彼らだけの事実を引き出すことは不可能だろう。
できることならルルーシュの話を聞きたいと、つい最近までアヴァロンに半ば軟禁されていたジノは考えていた。
――――だって、なあ。
学園でのルルーシュは常に薄い笑みを浮かべてジノに対峙してきた。あれは警戒されていたのだ。死んだはずの皇子として、ゼロとして、皇帝の騎士である自分を。薄く、透明な、絶対の拒絶。当然のことだ。
ヴァインベルグ卿と呼ぶ涼しい声音。でもできることなら、弟を呼ぶ時のような、甘やかな声でジノと呼んで欲しかった。
だけど、一度だけ。
一度だけ、ヴァインベルグ卿ではなく、ジノと呼ばれた事がある。
怖いもの知らずのミーハーな女子生徒たちに追いかけられていた時のことだ。最初はきゃあきゃあ騒がれるのが珍しくて(貴族のお嬢様方はそんな慎みのない真似はしない)相手をしていたが、熱が入りすぎてエスカレートしていく少女達に辟易して逃げ出したジノを、少女達は追いかけだした。もちろんラウンズであるジノが追いつかれるわけがない。だが問題は少女の一人だった。よりにもよって階段近くで足をもつれさせ、そのまま転げ落ちそうになったのだ。
とっさに少女の腕を掴んで引き上げたものの、勢いをつけすぎて壁に肩を強く打ちつけてしまった。少女が無傷だったのはよかったが、さすがにしばらくは肩から腕までがしびれて使い物にならなかった。
驚いたのと、厳しい表情で肩のチェックをしているジノの様子に泣き出してしまった少女を宥めながらも次第に億劫になり、一人になりたいなと思った、その時だった。
「ジノ」
一瞬、誰に呼ばれたのかわからなかった。
振り返れば、本来この棟にいるはずのない最上級生が、紫水晶の瞳を厳しく細めてジノを見ている。
怒っている、らしい。だが、その理由に思い当たらない。少女は文字通り身を挺して守ったんだから、誉めてくれてもいいだろうにとほんの少し拗ねた気分になってから、気付いた。
――――名前を。
ジノ、と。
ルルーシュは少女達を軽く窘めて教室に戻らせると、ジノの無事な方の腕を取って引っ張った。保健室って奴かな?と思っていたら連れて行かれた先は生徒会室で。
何でもスザクがまだラウンズになる以前に学園に通っていた頃、あまりに生傷が絶えなかったために用意したのだそうだ。中身のほとんどが消毒液と傷薬なのを見て、生傷の原因がわかって笑ってしまった。
ルルーシュはジノにシャツを肌蹴させて、未開封のテーピングテープを取り出し手際よく肩を固定させる。政庁に帰ったらちゃんと検査をしてもらえと尊大な口調で冷たく言われてちょっと凹んでいると、さすがに言い過ぎたと気まずくなったのだろう。視線を泳がせた後で、ふうとため息をつかれた。
‥‥‥おまえは、騎士だろう。
ナイトオブラウンズ。皇帝の騎士。皇帝の剣。
ラウンズのナンバーは実力で順位が決まるわけではない。ナイトオブワンだけは別格だが、その他は空いている席を順に埋めていっているだけだ。円卓の騎士とはそういうこと。優劣はない。競うのは己自身とであって、その強さは全て皇帝に捧げられるべきものだ。
己の剣にかけて。
‥‥‥間違えてはいけない。ヴァインベルグ卿。ここは卿にとって仮初めの宿り木に過ぎない。貴方は皇帝の騎士なのだから、いつ戦場に戻るかわからない。その時に、一般人の少女を守って怪我をして戦果を上げられませんでしたなどと言えますか? 貴方は言わないでしょう。けれど、人の口は閉ざせない。そして貴方のした行為は、美談にはなりません。
忘れてはいけません。
ルルーシュは薄く透明な、拒絶というベールを再び纏う。
けれど、その言葉はどこか若輩者を窘める響きを持っていて、ジノは何故か祖父を思い出した。
貴方は皇帝の騎士なのだから。
ルルーシュは繰り返す。わかりきったことを、幾度も、重ねて。
どうか、御身大切に。
そうして、服を着せ掛けられた。
あの時気づかなかった事が、今ならばわかる。
ルルーシュがゼロだというのなら、KMFでの戦闘経験があったはずだ。ゼロが騎乗していたガウェイン、蜃気楼は戦闘よりも司令機として特化していたが、戦場を知っているのならば、ジノの駆るトリスタンの戦闘スタイルを知っているだろう。激しいGのかかる高速戦闘を得意とするジノが負傷する。その意味。
「甘いなあ、先輩」
ジノはどこか泣き笑いに似た表情を浮かべて、呟いた。
敵だとわかっているだろうに。いっそ背中からナイフを突き立ててしまいたいほどに、皇帝の騎士であるジノなど憎憎しかったに違いない。それなのに、土足で乱入してきたに等しいジノにすら心をかけるなんて、なんて甘い。
けれど。ああ、だけど。
「貴方らしいと嬉しく思う私も甘いですね、先輩」
冷たく優雅に拒絶しながら、わざと子供っぽく拗ねてみせれば呆れながらも美味しい紅茶と手作り菓子を出して宥めてくれる、そんな人だと知っているから。
だから、シュナイゼルに黙って敵地と化したペンドラゴンに潜入した。
ルルーシュの真意が聞きたい、ただそのために。
あってはならないことだが、ペンドラゴンが敵に占拠された場合を想定した模擬戦はラウンズならば繰り返し行っている。スザクはラウンズに連ねてようやく一年、しかもナンバーズ出身という特殊な経歴からそのような模擬戦があることすら知らされてないだろう。だから、ジノがこうしてやすやすと潜入するとは想像もしていないはずだ。あの男のことだから皇宮に潜入して一時間もすれば気付くだろうが、そこまで時間をかけるつもりはジノにもない。
人気のない回廊を突き進む。
記憶の中のこの場所は深夜であろうと常に灯りを絶やすことなく、明るく煌々としていたものだが、今は辛うじて足元が見える程度の最低限の照明だけ。昼夜交代で警備にあたっていた衛兵も見当たらず、夜毎意味もなく開かれていた夜会で泥酔する貴族の姿もなく、まるで無人の城のようにひっそりと静まり返っている。
この人気のなさは異常だが、人が活動している気配は遠く感じるから、誰もいないわけではないのだ。
ルルーシュがシャルル皇帝弑逆と皇帝簒奪を宣言した映像はジノも見た。ギアスという力は恐ろしいと、確かに思った。
だが。
ルルーシュを盲目的に認める皇族と貴族という名の奴隷達。彼らは一体どこに行ったのだろう。
オデュッセウス殿下は一般兵士として軍務につき、ギネヴィア皇女殿下、カリーヌ皇女殿下は皇宮のメイドとして働いている姿が国際放送で流れていたが、その他の皇族は?
そして何よりも、あの方々が未だに兵士やメイドなどやれているのか?
ジノがアッシュフォード学園に編入したのはスザクが通うから面白そうだという理由からだったが、いかに自分が貴族以外として生きていけないかを実感させられた。
騎士以外の道など考えたこともなかったから、別に身の回りの事ができなくても構わない。そのための人間を雇えばいいと考えていたし、今も変わらないが、それでも知っているのと知らないとでは大きく違う。
断言できる。オデュッセウスを戦場に出したら五秒で死ぬ。そして、ギネヴィアとカリーヌは皇宮の調度品を壊し続けるだろう。
あの潔癖で完全主義なルルーシュが、それに耐えられるとは思えない。それともギアスの力は本来持っている素養すら変化させるのだろうか。
コーネリアやヴィレッタ・ヌゥの語るギアスは彼女達の主観ばかりで、能力の詳細にはまったく触れていなかった。ただ操られていたのだと、そればかりだ。
女性蔑視するつもりはないが、ああも感情ばかり先走られては、戦場に女は不要と考えてしまうのも無理はないではないか。同僚であるアーニャやモニカ、ノネットたちは別格と考えているあたり、身贔屓は自覚している。
埒もないことを考えながらも、ジノの足は目的の場所に最短距離で向かっている。本来であれば一番警備を強化しなければならない場所なのに、人気のなさは変わらない。
ジノはふと不安になった。
もしかして、ルルーシュはここにいないのだろうか?
シャルル皇帝は他国を占領し、急激に国土を広げていったために常に暗殺の危険に晒されていたので、本宮のありとあらゆる場所に寝所を作らせて夜毎場所を変えていた。ルルーシュは豪奢な宮殿や寝室に執着するタイプではなかったはずだし、そもそも暗殺される可能性はシャルル皇帝以上である簒奪者が「ここにいる」と宣言しているような場所に居続けるか疑問だ。
スザクはそういった心理戦には長けていないが、恐ろしく殺気や危険に敏感だ。人間離れした身体能力も含めて、おまえはどこの野生動物だとノネットたちに呆れられていたのはそう昔の話ではない。
そのスザクがルルーシュを危険の真っ只中に置き続けるだろうか?
「わからないな」
スザクとルルーシュのことも、ジノにはわからない。
主であるユーフェミアを殺したゼロをスザクは憎んでいたはずだ。ゼロを殺すのは自分だと、何度も口にしていた。けれどゼロはルルーシュで、ルルーシュはスザクの幼馴染みで親友で。
ルルーシュを皇帝に突き出してラウンズの地位を賜ったはずのスザクが、何故今更ルルーシュに味方するのだろう。
わからないことがあまりにも多すぎる。そしてそれはジノが知りたいことばかりで、だからこそジノはルルーシュに会いにきた。
皇帝であるルルーシュに従うためでなく、知りたいことを応えてもらうために。
「まあ、応えてはくれないだろうけど」
その程度のことはわかると、ジノは苦笑する。
ルルーシュは嘘が上手い。隠し事も。だからきっと誤魔化される。それでもいい。ジノはただ、決定打が欲しいのだ。
ルルーシュと敵対するための覚悟と、殺すための決意を明確にするために。
もしかすると、自分に従って欲しいと請われるかもしれない。だが相手はあのルルーシュだ。アッシュフォード学園という、ジノが間抜けにも無防備になっていたあの場所で、ギアスを使う絶好の機会だろうにそうしなかった恐ろしく自尊心の高いあのルルーシュが、果たしてジノに命乞いしたり懇願したりするだろうか。
「ありえない」
言い切れる。絶対に、ルルーシュはそんなことはしない。その矜持と自尊心の高さは、さすがに皇族といえる。母親は庶民出の騎士候でも、血筋はともかく精神面は誰よりも皇族らしい。あのコーネリアなどよりもよほど。
‥‥‥本当は。
本当は、自分に味方して欲しいと、そう請うてくれたならどんなにいいかと考えている。
だが、ジノはシャルル皇帝のラウンズだ。地位のためだけに剣を捧げたわけではない。簒奪など、たとえルルーシュであっても認めるわけにはいかない。だからこそ、迷う自分が許せなくて、こうして区切りをつけにきたのだ。
ルルーシュの真意を問うて、覚悟を決める。
この場は一度引いて、騎士らしく戦場で対峙して。
そして――――
ジノは、泣きそうに顔をゆがめる。
ねえ、先輩。
本当はね、貴方にはあの学園に居続けて欲しかった。貴方は仮初めの宿り木だといったけれど、宿り木って羽根を休めるための枝でしょう? シャルル皇帝の元は充実していたけれど、羽根を休める場所じゃなかった。だから、だからね、私が学園を去ってもたまに羽根を休めにいってもいいかなって、そんなこと考えていました。そこに貴方が居たらどんなにいいかと思ってたのは内緒です。きっとまた綺麗に微笑みながら、目だけは冷たく睨んでくるだろうから。でもね、知ってましたか? そういう時の先輩はいつも、目元が少し染まってたんですよ。可愛かったなあ‥‥‥
ジノは。
荒く歩調を速めた。
どこまで進んでも変わらず人気はない。それでも身についた習性で気配を消し、足音も消していたが、なんだかどうでもよくなってきた。見つかったとしてもどうでもいい。どうとでもするがいい。
ここでルルーシュを殺したとしても、残るのはシュナイゼルだ。あの男だって皇帝弑逆、簒奪を口にしていたのに、ルルーシュとどこが違うというのか。それに、ジノの勘が告げるのだ。ルルーシュとの戦いの果てに勝者となるのがシュナイゼルならば、それは世界にとって幸いであり、人にとっては最悪であると。
それでも誰かに付き従うしかない。
そんな自分が、たまらなく嫌だった。
本宮の内部は恐ろしく広い。
皇帝が休む寝所は複数あるもののどれもその最深部にあるのが常で、シャルル皇帝時代と変わっていたとしても大抵の位置は把握できる。
ジノがそのうちのひとつがあるだろうと思われる場所にたどり着いた時には、すでに月ははるか天上に昇っていた。
皇宮の闇は深く、月明かりがどれほど明るくてもそこかしこに濃い闇が潜んでいる。幼い頃のジノは、この闇がひどく恐ろしかった。
今ならばわかる。ジノが恐ろしかったのは偽りの笑顔で虚飾された人の欲望であり、隅に追いやられ過去とされた敗者の怨嗟だ。祖父が口にしていた魔女とはおそらくは無念のうちに死んでいった貴族の娘か皇女のことだろう。
ジノは寝所と当たりをつけた部屋に続くテラスに目を留める。当然鍵はかかっているだろうが、そこはそれ、強行突破するつもりだ。
テラスへ移動するため、小さな庭園に足を踏み入れる。
そこで、ジノは足を止めた。
何かがおかしいと思った。
そしてその理由はすぐに知れた。薔薇がないのだ。
ブリタニアの国花。皇族の花。皇居での花木といえば当然薔薇なのに、その小さな庭園には一枝も咲いていなかった。花開いていないのではなく、株自体がないのだ。どれほど低位の皇族の宮であろうと、薔薇だけは必ずあるというのに。
ジノは、こくりの咽喉を鳴らした。
異常は感じられない。
人の気配はなく、夜の鳥の声も聞こえない。その静けさがかえって異様で、ジノは知らず拳に力を込めている自分に気付いた。
‥‥‥なんだ?
月が投げかける、ほの白い月明かり。
咲く花は薔薇ではないけれど、今が盛りと咲き誇る蔓性の白い花は強い芳香を放ち、風に揺られてハラハラと小さな花弁を落とす。
小さな箱庭のような庭園は芝生が敷き詰められている。そして、小さなガーデンテーブルと椅子。
ジノはそのテーブルに視線を当てると、目を丸くした。
小さな小さな影が、ちょこんと椅子に腰掛けている。
「――――人形?」
ジノは力が抜けたように大きく息を吐くと、がりがりと頭を掻いた。
「人形遊びの趣味でもあったのか?」
テーブルの上には影に見合う大きさの小さなティーセット。凝りすぎだ。
椅子に腰掛けている人形は、恐ろしく出来栄えがよかった。
誰かによく似た黒絹の髪。極上の紫水晶をはめ込んだ大きな瞳。どれほど熟練の人形師であっても再現は無理だろうと思われた処女雪の肌も完璧だ。
だが、しかし。
「なんで女の子?」
人形が纏うのはシルクのドレス。漆黒のそれは恐ろしく極上なものであることはジノの目にもわかった。最高級の絹に劣らない黒絹の髪を飾るリボンも相当値の張るものだろう。
確かにルルーシュは凄まじいほどの美貌を誇る。美形揃いと評判の皇族方の中でも段違いなのだが、たとえばシュナイゼルやクロヴィスが男性的な美貌を誇る貴公子ならば、ルルーシュは女性的というか、性別の匂いがまったくしない人間離れした美貌といえる。
だが、さすがにこれはないだろう。作らせたのがもしもルルーシュならば、実は女性願望があったのか?と勘ぐってしまいそうだ。
ジノは、その人形を前にして盛大に息を吐く。なんだか気が抜けてしまった。
しかし、それにしても。
「よくできてるなあ、この人形」
幼い頃のルルーシュに会う機会はなかったが、三歳くらいの頃のルルーシュはこんな感じではなかったのかなと思わせる出来栄えだ。特に瞳の紫水晶は素晴らしく、どうやってこの輝きを出したのだろうと状況を忘れて感嘆する。
「‥‥‥持って帰っちゃ駄目かな?」
呟きながら、手を伸ばす。
まろやかなその頬に触れようと指先を伸ばしたところで、
「馬鹿者」
冷たく、尊大に罵られた。
「‥‥‥へ?」
「若いくせにお人形遊びの趣味でもあるのかこの変態。これだからあいつの狗は」
心底呆れたように、蔑むように。
桜色の小さな唇を動かして。
鈴の音を転がすような可憐な声音で。
「‥‥‥‥‥‥へ?」
「おいスザク。この不法侵入者兼特殊趣味のおまえの同僚を責任もってどうにかしろ」
「こんな同僚いらないよ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥へ?!」
何が起きているのか。誰と誰が何を話しているのか。
いろいろ衝撃すぎて思考が硬直していたジノであったが、そんな場合ではないと身体の方が先に認識したらしい。この場は引こうと飛び退こうとして、しかし、後頭部に鈍い衝撃を感じてそれは叶わなかった。
「‥‥‥馬鹿だなあ、後輩」
遠のいて行く意識の隅、小さな指で額に軽くデコピンされる感触に、これは夢だと泣きたい気分で思いながら。
皇宮には魔女が棲んでいる。
覚えておくのだよ、ジノ。